オムツ替えの小さな贈り物

オムツ替えは、母親業の中でも特に地味な作業だ。一日に数回、淡々と繰り返す。でも、子が寝返りを覚えてからというもの、この地味な作業は格闘技へと変わった。
「今は絶対にダメ!」なタイミングで転がろうとするのだ。「じっとしててね」と声をかけようがおかまいなし。足を持っていてもそのまま転がろうとするので、ほとんど宙吊り状態になったりもする。子とは五倍近く体重差があるのに、力負けしそうになることも多々ある。こっちは必死なのに、あちらは無邪気な笑顔だ。
そこで私が編み出した苦肉の策が、スマホを持たせることだった。子育てにおいて、できるだけスマホやテレビには頼りたくないが、背に腹は代えられない。子が興味深げにタップしている隙に素早くオムツを替えるのだ。勝率はかなり高く、良い作戦だった。
ある日、いつものようにオムツ替えをしていると、パシャパシャと音がした。カメラはこちらを向いている。
「おかあを撮ってるの?」と顔を近づけると、画面を見たままキャハキャハ笑ってくれた。それが嬉しくてしばらく遊んだあと、スマホを回収する。カメラロールを開くと、びっくりするくらいたくさんの私が写っていた。
オムツを替えている私。真剣な顔で子の足を持ち上げている私。撮られていることに気づいた私。いないいないばあをして、ふざけて、笑っている私。
どの顔も、飾っていない。すっぴんで、メガネで、髪はぼさぼさ。でも、どれも不思議と「いいな」と思えた。ああ、子にはこういうふうに私が見えているんだな、と。
スマホのカメラロールを遡ってみる。
夫と子が公園ではしゃぐ姿。湯気が立つお風呂上がりの笑顔。手掴みで、口の周りをぐちゃぐちゃにしながら食べる食事風景。
寝顔、泣き顔、笑い声が聞こえてきそうな一瞬一瞬。
可愛い瞬間を逃したくなくて、夫と子の記録を残したくて、気づけば私は『撮る人』になっていた。
けれど、子が撮ってくれた写真を見ていると、じんわりと温かいものが込み上げてきた。
誰かが、私にカメラを向けてくれた。
たとえそれが、偶然の産物だとしても。私がそこにいることを、記録してくれた。
それが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。
カメラロールの中に、私がいる。ただそれだけで、『私はここにいたんだ』と、静かに救われた気がした。
ぼさぼさの髪も、疲れた顔も、笑いすぎてくしゃくしゃになった目尻も、そのままで。それが、今このときの、確かな私だった。
子が大きくなったとき、この写真を見せてあげたい。「あなたが初めて撮ってくれた、おかあの写真だよ」と。
そのとき、子は何を思うだろう。
覚えていないはずのシャッターの向こうに、笑っている私がいる。
それは、なんでもない毎日からの、小さな贈り物だった。